「信じる」「信じられる」自分をつくる
「人を信じる」とか「人から信じられる」という言い方がありますね。
「信じる」とか「信じられる」というのは何についてなのでしょうか。
仕事であれば、「期待しているとおりの結果を出してくれる」ことを「信じたり」「信じられたり」するということでしょうか。
「信じる」は、相手が自分の期待している結果を出せる人物だと思っている、ということなのかも知れませんが、実は、そう見込んだ自分の観察眼、人物評価力を信じている、ということなのではないでしょうか。
「信じられる」は、相手が期待している内容を理解できていて、期待されている結果が出せると思われている、と自分が信じているということなのではないでしょうか。
そうだとすると、「信じた人」が期待した結果を出すことができなかった場合は、相手が悪いのではなく、自分に人を見る力がなかった、ということになりますね。
「信じられている」という結果を出したのに、思うような評価を得られなかった場合には、相手が悪いのではなく、自分の思い違いだった、ということになりますね。
常日頃のつきあいから、「この人ならば大丈夫」とか「この人ならば任せられる」と感じているのなら、その人が期待している結果を出せるように環境づくりをするとか適切なアドバイスをするとかの協力も必要かも知れませんね。
人を見る目
人を見る目のベースになるのは、自分の経験や知識に基づく客観的な視点で、感情や過度な期待などが入ってしまうと自分の都合になり、「だったらいいな」的な要素のために評価が歪んでしまいます。
また、ほかの人とも比べていくわけですから、その人だけでなくほかの人への人物評価力も同じように客観的でなければなりません。
経済学用語にレッセフェール(自由放任主義)という言葉があります。
過剰な干渉ではなく市場のはたらきに任せるという意味ですが、人物評価も同じように、人を信じたら正確にミッション(任務)を伝え、その人の能力が十分に発揮できるような環境づくりと適切な評価は欠かせません。
プライベートで「友人を信じる」という場合も同じで、こちら側の都合で相手に過剰な期待をしてしまうと、その人の個性から離れて、こちら側が勝手に作った人物像に対する評価になってしまいます。
相手に対して、「信じていたのに」とか「期待外れだ」、「裏切られた」という評価をする前に、自分が思っていた相手が、その人本人の実像なのか、自分が勝手に作った偶像ではなかったのか、ということの確認が不可欠です。
一度は「信じられる人」という判断をしたわけですから自分の人物評価力を信じていき、それでも時間が経って相手への理解を深めるなかで、やはり違っていた、と感じたらそれは自分に人を見る目が無かったということで、自分で責任を取らなければなりません。
また、相手も何かがあれば性格も変化するかも知れないし、それは一時的である場合もあるので、その見極めも大事ですね。
そういう体験をした場合には、次はそのような思いをしなくて済むように、どこで、何に錯覚したり間違えたのかを分析し、素直に反省をすることで適確な判断、人物評価ができるように経験として生かし、さらに知識をつけていけばいいだけのことです。
そのような事態を避けるためには、相手の個性を尊重し、相手がイヤがる行動などを避けて、お互いに補い合いながらの関係を築き、続けていくことが大切ですね。
逆に、相手からの期待も裏切らないように工夫をした方がいいですね。
「大切な人」だと「信じた人」であれば、それにふさわしいこちら側の努力も必要なことは言うまでもありません。
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