第94話 ばかにする

考え方が変われば生き方も変わります
悩むことで心を傷つけるより、頭を使って考え、違う生き方を試してみませんか

ばかにする

他人(ひと)をばかにする人を見かけます。

1対1で、二人でいる時に相手をばかにするということはあまりなくて、何人かの人たちがいる状況で、そのなかの一人の人をばかにして笑うという場面が多いような気がします。

笑いのネタとしてばかにするのでしょうけれど、ばかにされ、笑われた人は案外傷ついているのではないでしょうか。

私は他人(ひと)をばかにできるほど立派な人間ではないことを自覚しているので、自分のなかでは、できるだけ他人(ひと)をばかにすることを慎んでいるつもりです。

私は5年間ほど海外で生活をしましたが、そこでは日本人どうしのように他人(ひと)をばかにしたり、あげあしを取ったり、やゆしたり、いじったりする関係をみかけることはあまりありませんでした。

外国人どうしでは人間関係が、日本人どうしほどベタベタと近しい雰囲気を感じることはなく、個人主義が徹底しているからなのか、相手の人格を尊重するというか、お互いを認め合ったり、すぐれた功績をあげた方にはリスペクトをしているようでしたが、逆に、もっとひどい人種を含めて差別みたいなことはよくみかけました

差別

そうですね、外国では日本では考えられないほどの差別を目の当たりにしました。

外国では、日本と違っていろいろな国から、さまざまな人種の方たちが暮らしていて、差別も含めてルールというか習慣というか、その国独特の決まりみたいなものがありました。

私はアメリカ人とドイツ人の違いを容姿などからは判断できずに、とくにその違いは意識していませんでしたが、初めてお会いする方たちは私がなに人、つまりアジア人には見えるけれども、そのなかの国や人種の違いを見定めているように感じました。

1対1の関係では、人格を含めてすべての面で相手より勝っているわけではないと思うのですが、たまたまそれぞれの国で、さまざまな人種で生まれて、同じ国で生活をしているのに、国や人種の違いが理由で絶対的な優劣があって、本人の努力だけではそれを覆すことができないので、性別などと同じようにその点を突くと、ばかにするというレベルではなく差別になってしまいます。

日本人どうし

日本人は逆に、日本に住んでいたり日本を訪れたりする国や人種が違う人たちに対して差別意識を持つことは少なく、どちらかというとその違いを受け入れて、比較的親しく接することができているように思いますが、それは国や人種の違いに寛容というよりは無関心でいるという感じが近いのではないでしょうか。

日本人どうしでは、国や人種などといった絶対的な違いはなく、日本民族というレベルで大きなくくりのなかにいて、お互いが個人差レベルの違いがある程度が前提になっているので、さほど親しい関係でなくても、ばかにするほどはないにしても小ばかにしたり、茶化したりして笑いにする風習があるように感じます。

ほかはどうということがないのに、ささいなことやどうでもいいことを必要以上に誇大に話題にして、やゆしたり、いじったりと、ようはからかうようなことが多く、まるで小学生時代からの人との付き合い方から抜け出せていないようですね。

違いに気がつくと

日本人の風潮として、ほとんどがみんなと同じようだったり、あるいは優れていたとしても、振る舞いのごく一部や身体の一部が特徴的だったりするとそこだけを取り上げて話題にしますが、海外ではみんなと同じ部分やみんなより頑張った部分、優れている部分にスポットライトを当ててお互いを認め合い、みんなと違っていたり、劣っている部分については接する人の立場によってさまざまで、親だったリ、先生だったリ、上司だったリ、友達だったりで異なりますが、基本的にはなかば義務的に、サポートする姿勢があったように感じていました。

日本を訪れる外国人は、TVなどの報道によると、自国の風景や習慣、食べ物などを日本のそれと比較して褒めてくれたり楽しんでいたり、不思議がったり、興味をもってくれたようです。日本のすべてがよくて褒めているわけではなく、自分が体験し、いいと思ったことがらだけに注目して褒めてくれているので、よくない、もしくは自国のほうがいいと思ったことがらについては、TVの前もあって口にすることはありません。

TVのインタビューでは、日本のいいところや感心したところしか報じないので、日本人は外国人との感覚の違いなどを楽しんで観ています。

一方、日本人どうしの場合には、自分が知っていたり、世間では常識と思われていることがらを知らない人を見下すようにばかにすることはあることかも知れませんが、わずかにみんなと違ったり、ささやかな失敗をした程度なのに、あたかも愛情表現だと思っているかのように茶化したり、あげあしを取ったりして近い関係を持ちたがります。

なぜばかにするのか

日本ではなんの実績もなく、その人ほどの努力もしていないのに茶化して、その人の実績や頑張りを自分のレベルまで引き下げ、リスペクトの気持ちは感じられないような風潮があるように思います。

どうして日本人に、いじるというような表現ではぐらかしているようですが、他人(ひと)をばかにする風潮が多くみられるのでしょうか。

私は、意識として他人(ひと)をばかにしないように努めているので、推測になるのですが、他人(ひと)をばかにする人は、みんなから認められたいとか、関心を持って欲しいとか、かかわりあっていたいとか、無視されたくないなどと思っているのではないでしょうか。

「第20話 み族になるな」でも書きましたが、他人(ひと)を誹謗中傷したり、ばかにしたりする人は、自分にコンプレックスを持っていたり、世の中に不満や不安があるのはないでしょうか。

不満や不安が原因?

であるとすれば、自分が思っているような評価を受けていないのでは、と不満があったり、自分は相手よりも劣っているのではないか、と不安に思っていたり、負けたくないと思っている、ということは負けているのかも知れないと感じていて、それを感じられたり、そう思われるのを隠す心理もあるのではないでしょうか。

他人(ひと)をばかにする人は、たしかに頭が良くて、優れているのかも知れませんが、ものごとに真剣に取り組む姿勢がないので、実績を残せるはずがないのでしょう。

まさに、宝の持ち腐れ的で、ものごとへの取り組む姿勢や人との接し方を変えれば、実績も残せるだろうし、人の役に立つこともできると思うのですが。

他人(ひと)の言動を茶化したり、あげあしをとったり、小ばかにしたりするのは、自分が相手より優位であることを示すために、攻撃性はないものの相手をばかにして軽んじたり、侮辱するという振る舞いをするのでしょう。

要は、考え方が自分を中心としていて、的確に人を評価できない、しない風潮が日本人には多く見られ、それをごまかすためにお互いの人間関係の近さを演出して、甘えて、親近感を味わいたいのかも知れません。

いじるはいじめ

いまの風潮として、いじるといことがされる方もする方も、親近感の表現の一つのような約束事になっているようですが、私が感じているのは、それはしてはならないいじめの一歩手前というか、ほぼいじめに属する行為ではないかと危惧しています。

いじるという行為は、相手のたった一部の欠点やめったにない落ち度をあげつらって、みんなで面白おかしく茶化すことなのでしょうけれど、それはほとんどいじめと同じ行為だと思われるので、いじることがいじめに変化しなければいいのですが。言葉も似ています。

付き合いの距離が近く、それがお互いの理解につながり、お互いの人格を尊重して、リスペクトし合えるのならいい関係が築けますが、いじられることもいじめられることもうっとうしいと感じたらその人たちと距離を置くことが一番でしょう。

そうか、私も態度には表しませんが、心のなかでは他人(ひと)をばかにしているのを見た場合には、あなたはその程度の人間なんですね、という評価をしているかも知れません。ばかにしているつもりではないのですが。

人間として完璧な人などいないわけですから、それぞれが持っているほかの人との違いは個人差でもあり、特徴でもあり、個性でもあることが多いので、お互いがお互いの違いを認め合い、人によって容姿や性格、出身地、生活環境、家庭環境などがあることがあたりまえのこととして理解し、それを前提に会社や学校、それぞれのグループのなかでよりよい人間関係を築くことができたらいいですね。

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