第109話 さびしい

考え方が変われば生き方も変わります
悩むことで心を傷つけるより、頭を使って考え、違う生き方を試してみませんか

さびしい

人は誰でも、これまで“さびしく”なったり、“さびしい”と感じたことがあると思います。

その“さびしい”という漢字に「淋しい」や「寂しい」があります。

どちらも、周りに誰もいないなどの状況で同じような心情を表していますが、強いて区別をすると「淋しい」は主観的な孤独感といった感情で、「寂しい」は客観的な静けさの空間や時間を感じるときに使われるようです。

ただ、自分がどこにいるのかがわからないような暗い場所で、周りに誰もいなくて一人でいると“淋しさ”を感じます。

また、“さびしい”は会話の中では“さみしい”と言ったりしますが、標準的には“さびしい”と言ったり、書いたりするようです。

ここでは心情的な「淋しい」について考えてみたいと思います。

人はどんな時に、なぜ“淋しさ”を感じるのでしょうか。

周りに誰もいなくて、つまり一人きりで、自分がどこにいるかなど周りの状況が理解できないとき、将来的な先行きが分からないとき、自分のことを誰にも理解されていないように感じるときに、誰も力になってくれる人がいないとか、どのように対応したり、対策を立てたらいいのかがわかないと“淋しさ”を感じるのではないでしょうか。

というのは、人は寝る時を含め一日のなかで、一人で過ごす時間は多いと思うのですが、一人になったら必ず“淋しさ”を感じるかといえばそうではないので、“淋しさ”を感じるときは一人でいる場合が多いものの、“淋しさ”を感じるというのは一人でいるという状況だけではなく、ほかの要因があることになりますね。

大勢の人たちと過ごしていて突然に一人になってしまったとか、楽しい時間を過ごしていて急に一人になってしまったとか、一緒にいる人たちと溶け込むことができないとかの場合に“淋しさ”を感じるので、状況として一人でいるということもありますが、一人ぼっちのような感じがしたときに“淋しさ”を感じるのかも知れませんね。

自分が気に入っていた状況が急に変わってしまったり、終わってしまったりして思いもかけずに自分の望まない状況になったりで、状況の変化に気持ちがついていけず、その気持ちを理解したり、共有してくれる人がいないような場合に“淋しさ”を感じるのでしょう。“淋しい”は人間関係のなかで生まれ、感じることが多いですね。

逆に、一人でいても“淋しさ”を感じないときは、自分を理解してくれているという確かな存在の人がいるとか、他人(ひと)に親切や優しくされているとか、支えられているとか、みんなで笑い合うなど楽しい時間を過ごしたことなどを思い出しているときや何かに夢中になっているなど、いま過ごしている時間に心が穏やかだったり、満たされている状態のときなどでしょう。

不安

似たような心の状態に“不安”や“孤独感”というのがありますね。

何をやってもうまくいかず、自分に自信が持てないときやこれからの先行きを見通せなかったり、あまりいいことがないように思えるときに“不安”を感じますが、その原因の大部分は、やろうとしていることに対して技術的な能力が不足していると感じているなど自分に自信が持てないことですが、さらに、ではどうすれば問題が解決できるかがわからないということもあるし、そのような状況なのに周りに誰も助けてくれる人がいないとか、そのような状況を相談する人間関係を作ってこられなかったこと、などもあるでしょう。“不安”はほかの人の影響というより、自分自身の問題として感じることが多いですね。

もし、やろうとしていることがうまくいかずに“不安”を感じた時でも、親身になって相談に乗ってくれたり、手助けをしてくれたり、支えてくれたり、お酒を飲みに行くなど気分転換に気軽に付き合ってくれる友人などが身近にいれば、たとえ“不安”を感じた時でもその期間を短くすることができるでしょう。それは“淋しさ”を感じた時も同じですね。

孤独感

一方“孤独感”は、自分が一人きりだと感じることですが、たくさんの人の中にいても、その人たちの会話についていけないとかひけめを感じたり、仲間はずれにされているような気がしたりすると“孤独”だと感じることがあります。

一人きりでいる状態を含めて、多くの人と一緒にいてもその人たちから距離があるような気がしたり、仲間外れにされているような気がしたりと疎外感が“孤独”だと感じる原因ですが、なぜそのように感じるのか、なぜ自分のことを仲間はずれにするのかの理由が分からなかったり、もし理由が分かり、どうすればいいのかもわかったとしても、それを実行する気にはなれない。みんなに合わせようとは思わない、どうしたらいいのかを相談する人がいない状況も“孤独感”といえるでしょう。“孤独感”は人とのつながりの関係で起こるのかも知れませんね。

“孤独”だと感じていないときは、心が通い合っていたり、お互いの気心が知れて理解しあっている気がしているとき、グループやチームで同じ目標に向かって頑張っているとき、グループやチームのなかで自分が果たすべき役割を理解して、それを果たそうとしているときなど信頼している人たちとの連帯感があるときでしょう。

一人でいることが好きな人でも、必ずいつか楽しく過ごせる時間があったり、信頼できる人の存在があるから“孤独”を感じないのでしょう。

“淋しい”はがんばるエネルギー

私は基本的には、人は誰でも“淋しい”のだと思っています。 

人は生まれた時は一人で、そこからいろいろな形でのつながりを求め、交流することでさまざまなことを学習し、経験をして成長していき、生きていることを実感します。

さまざまな自発的な行動の原因を考えると、設定した目的の達成とか、いろいろな欲望の実現のためというのもあるとは思いますが、ほかにも“淋しい”からというのがあると思います。

誰でも“淋しい”のは好きではないから、“淋しく”感じないようにしたり、それを紛らわしたり、避けたり、できるだけ早くとりつくろったりして、一人ぼっちにならないような“淋しくない”状態になろうとします。

ほかの人から愛されたい、好かれたい、認められたい、信頼されたい、存在を知ってもらいたいと望むのは誰でもあたりまえのことだと思うので、そのためには人とコミュニケーションを図って信頼関係を築き上げたり、好かれたりお互いに理解し合ったり存在を知って欲しいと願ったり、頑張って何か成果をあげて周りに認めてもらえるように努めたり、何か目立つことをしたりして、周りの気を引いたり、周りに人に気にかけてもらいたいと望んだり、頑張って何かに打ち込んで夢中になったり、場合によってはペットや植物にも話しかけたりして自分とのつながりを求めたりして“淋しい”という気持ちを持たないように、“淋しい”という気持ちを避けるために自分にあった、できるやり方で生きていくのではないでしょうか。

万が一“淋しい”という気持ちが起きたらできるだけ早く穏やかな、楽しい気持ちになれるようにさまざまな手立てを講じるのではないでしょうか。

だから“淋しい”は頑張るエネルギーになっていて、目立つことをよくする人はもしかしたら淋しがり屋さんということになるのかな。

羽澤 幸成

学生時代の県人会幹事長として、のちに大活躍される国会、県会、市会の議員の方や役所の方、趣味の音楽活動を通じて芸能の世界で生きている方など多くの人たちに接し、社会人になってから海外進出など多くのプロジェクトを軌道に乗せ、その分野の専門の方たちとも知り合い、いくつかの新しいことにもチャレンジして、早期退職後の企業信用調査の仕事では、それまでの大きな会社の人たちとは違う中小企業や個人事業の方たちとお会いし、いまは地域コミュニティ活動を通じて地域の方たちと交流活動をしています。
それらのキャリアを通じて、たくさんの経験をし、外国の方も含め多くの人たちに出会い、楽しいことばかりでなく、いやな思いもたびたびして、いろいろなことを学びました。
それぞれの世界で、多くの人たちが作る人間模様のなかで、うまくいっている人やそうでない人もいて、能力以外に考え方が違うのだ、と感じました。
人それぞれ考え方が違うので、当然に生き方も異なり、一緒に仕事や生活をしながら、なぜ、そうするのかを考えることの繰り返しで対応しながらも、自分の信念は曲げずに生きてきたので、心を痛めて悩んでいる人に、こうは考えられないかな、と頭を使って苦境を打開するキッカケになってくれればと思っています。

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生き方の考え方

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