第87話 進歩の変化

考え方が変われば生き方も変わります
悩むことで心を傷つけるより、頭を使って考え、違う生き方を試してみませんか

世の中の進歩、進化

世の中は日々刻々と進歩、進化し続けていて、それが必ずしも誰にとってもいい世の中になっているかどうかは別としても、変化していることには間違いがなさそうです。

昨日と同じことやものはないのかも知れないほど、カタチがあるものの変容のスピードは速く、ものごとの判断の基準となる価値観もいつまでも固定的ではなく、人間社会の根本でもある倫理観でさえも微妙に変化をしてきているのを感じます。

いろいろなものが相互作用などを受けて、自然に、または何らかの強い要請により進歩、進化、変化していくのは必然なのでしょう。

少し前の日本、肉体労働で身を粉にして稼いで所得が増え、徐々に生活が豊かになり購買力もつき、物欲も盛んになって、便利なもの、いいもの、これまでと違う新しい生活ができるものなどを手に入れようとしました。

人生の成功とまではいかなくても豊かさ、満足、幸せのシンボル・実感として自動車や近代的な家電などが身近にあるようになり、食事や時間の過ごし方などのライフスタイルもそれなりのレベルが求められてきました。

進歩、進化の進み方

そんなニーズに応えるように高性能で、高品質のモノを大量生産する必要があり、旺盛な需要と供給の好循環もあって、バブルといわれた経済環境が生まれ、世の中が一気に活気づき、一億総中流社会という時代感覚が生まれ、みんな一緒だという連帯感にも似た同一視で互いに接し合っていました。

労働環境も労働効率と生産性、均一で高品質な商品を大量に生産する生産技術、作業理論を駆使して省力化や品質の均一化、作業の標準化や効率化、大量生産を実現するために生産管理ノウハウが確立され、それを実現するベルトコンベア、トラクターなどの作業機械、NCマシンなど工作機械、CADなどの設計機械など必要な生産機械が作られました。

コンピュータも計算機能やワードプロセッサ機能がメインで、身の回りにある機械というものは人間の労働の補助機、サポート機械として近代的な進化を遂げてはきたが、しかしあくまでも道具の域にとどまっていました。

設備投資をしても、大量生産・大量消費によって投資は回収できたので細部に至るまで人間の作業領域は次から次へと機械に置き換えられてきました。

これらは生産に携わる人間のサポートや省力化には役に立ち、人間を楽にはしてくれたものの考えたり、教えてはくれず、生産全体としては、まだ人間の持つノウハウが主導でした。

近年は考えてくれる、教えてくれるコンピュータ、AIを中心とする機械が出現し、主流となり、ノウハウが機械にプログラム化され、いわゆるブラックボックス化されてヒトからヒトへのノウハウが引き継がれなくなり、いまや指導する立場のヒトでさえ、もはや伝統的なノウハウを持っていないので、技術の伝承は途絶えた感があります。

コンピュータの浸透

いまでは日常生活でさえIoTでコンピュータの支援分野が広がり、人間同士のネットワークやコミュニケーションの形態も直接顔を合わせたり、音声によるのではなく、文章しかも短い文字を介して行うことが多くなり、当然にお互いの意思が十分に伝わることは難しく、さらにスマホへの依存度が高まり、そして一日何時間スマホの画面を見ているのかというくらい主体性なくスマホに振り回されている中毒的な様子さえうかがえます。

その結果、高齢者と若者などジェネレーションギャップをはじめ、上司と部下、生産者と消費者、男と女、既婚者と独身、高所得者と低所得者などさまざまな違いが相互不理解もあってギャップとなり、その差が際立ち、さらにスマホなど情報機器の所有の有無や利用技術の差によるデジタルデバイド(情報格差)がそれらを助長し、格差という意識構造にまで至ってしまった状況で、日本ではあまり感じなかった民族、人種、歴史の違いから生まれる差別に近い感覚で、お互いに対立の様相を呈するほど自分と状況・条件の違う接点を持つ対象を受け入れる許容力が欠けてきているのではと感じられます。

もしかするとコンピュータやAIを使いこなして、人間の英知・アイデアでこれまでモノなどに適用していた均一・大量という規格・基準でつくられてきたモノを社会基盤・前提条件として、これから生き生きとした世の中をつくっていくには平等、個々、ダイバーシティー(多様性)、ユニーク(独自性)、希少といった考え方・理念を理解し、受け入れて世の中の森羅万象を処理していくことがこれまでのアンチテーゼ(対立理論)として求められている気もしています。

作業のサポート役としてのコンピュータ

工場などの生産現場や建設工事などの現場での作業だけでなく、日常生活でも大きな変化が起こるのは、科学技術やコンピュータ技術の進歩による影響が大きいですが、コンピュータが作業のサポート役であった状況では、人間が道具としてコンピュータを使っていました。

ひと昔前は、新しい技術の出現は便利さを生んできましたが、いまや新しい技術の出現に振り回されるような気がしていて、こんなことができるようになって便利になったと新しい技術を使いこなす感じでしたが、いまや技術の進歩が速く、それらの習得に追われ、生活に取り込んでいくというように新しい技術についていく気分にもなります

見渡せば飲食店をはじめ、コンビニやスーパーマーケット、百貨店などの小売店や電車、バスの乗車、映画館の入場というこれまで現金などで代金決済を行っていた場面では、電子決済が当たり前になってきて、外出する際でも財布に入っている現金を確認することなく、財布を持っていることさえ意識せずに、スマホさえあればなんでもできる状況が生まれています。

日常生活の実感

これまで、現金を数えて支払を行うことで、支払いの対象となった行為やモノの価値観を実感できていた気がしていましたが、電子決済では金額という数字だけがお互いの共通理解で、その場で価値観を感じることは少なくなり、その金額を得るための勤労についてはさらに意識から遠い気がするのではないでしょうか。

財布から一万円札を抜き取り、支払ったあとに財布が軽くなったような感覚を感じることはなくなり、意識するのは残高という数字となってしまい、何かを得るためには働いて給料という一般的等価物といわれる現金を得て、それを欲しいものに変えていくという古来から意識されてきた物々交換の感覚をベースにした世の中の仕組みが、代金決済というカタチで処理をするという感覚が強くなってきたように思います。

「必要は発明の母」だった

これまで進歩は、「必要は発明の母」という言葉があるように、まず「こんなものがあったら便利なのに」とか「こうなったらいいのに」という望む状況があって、それに科学や技術が進んでいき、それらを可能にする、というのが進歩のパターンだったように思います。

いまは、それを利用する状況が望まれているかどうかにかかわらず、「こんなことができるようになりました」とか「こんなものを作ってみました」というように、技術の進歩が先にあり、それらを利用する生活に変化していくという関係になってきたように感じています。

これまで世の中の進歩や変化は、省力化や効率化を含めて科学技術のサポートを受けながら望む状況にたどり着くという状況でしたが、いまでは新しいライフスタイルや時間の過ごし方の提案はもちろん、考える力のサポートや人間の技術では及ばないような精巧な描写で、本物と見まごうばかりの画像を創り上げるまでに進歩し、リアルとバーチャルの区別がつきにくくなりました。

人工知能

いまやコンピュータは人工知能としての機能を飛躍的に進化させ、人間としての英知の源でもある「考える」分野までサポートしてくれるようになり、さらにはその英知の結実である論文まで世界中のデータを参考にしながら作成までするようになり、英知の分野だけではなく人間の独特の感性が求められる文学や絵画、音楽など芸術の分野においても作品というカタチで一応の完成形を創作するまでになってきました。

それらは、これまで人間が経験したことがない未知の領域なので、コンピュータによって人工的に作られたものなのか、人間が持っている才能を駆使して造ったものなのかの見極めが大変にむずかしい状況です。

そのような現象は、進歩といえば進歩、進化といえば進化ではあり、実際に見たり、聞いたりすることができるのですが、人間の能力の進歩や進化の結果生み出されたものなのか、突然に人工的に造りだされたものなのかの区別がつかないので、人間としての進歩や進化の度合いが測りにくくなってきたように思います。

当然に、生活のなかでも風聞や作品などに対して、実際に起こったものなのか、フェイクなのか、の見極めの能力が求められることになります。

この文章は、私が自分の経験や知識をベースにして、コンピュータのワードプロセッサ機能だけを利用して作成しています。

争いごとがなくなったり、災害の発生を未然に防いだり、災害から身を守ることができるようなことに科学などの技術が進歩して欲しいと願うばかりです。

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