第93話 あることがあたりまえ

考え方が変われば生き方も変わります
悩むことで心を傷つけるより、頭を使って考え、違う生き方を試してみませんか

話しの前提

これから書く内容について、一般的にはとか、普通は、というと語弊があり、すべての人にあてはまるわけではなく、あてはまらない方がいらっしゃることも承知しているのであえて、文中の「みんなは」という表現は多くの方の場合は、という前提だということを全般にわたっての前置きとさせていただきます。

あたりまえ

あってあたりまえのもの。

あることがあたりまえのもの。

そうなることがあたりまえのこと。

この世に生まれてきたのだから両親がいることはあたりまえ。

元気で生まれてくれば、健康でいることはあたりまえ。

普通の家庭に生まれてくれば、普通に暮らすことはあたりまえ。

もっといえば両手があってあたりまえ、両足があってあたりまえ、動くのはあたりまえ。

両目、両耳があることがあたりまえ。

モノが見えて、声や音が聞けてあたりまえ。

若いうちは将来への時間があるのはあたりまえ。

それとともに可能性があるのはあたりまえ。

夜が明けて朝になり、新しい一日を始めることができるのはあたりまえ。

そうやって生きていることがあたりまえ。

誰かがそうしていてくれているために、スイッチを入れれば電気が点く、蛇口をひねれば水が出る、時間になれば電車が来るなどはあたりまえ。

それらのことをみんながあたりまえと思えるように、陰で頑張ってくれている人たちがいる。

よく考えてみれば、この世に生まれてきたこと、両手両足、両目両耳があること、兄弟がいること、ともだちができたことなど、どれをとってもおそらく偶然の重なりだったり、長い歴史の連続による自然の摂理だったり、誰かが陰でがんばってくれていたりして、あることが決まっていたり、あたりまえのものやことなど、あるはずがないのかも知れませんね。

あることがあたりまえだと思っているから、ふだんはあることに気がつかないし、あることのありがたさが分からない、感じにくい。

あってあたりまえで、みんなも同じようにあるから、あるから感謝しにくい。

ところが、それらを突然なくすことになって、それらがいかに、どれくらい大切だったに気がつく。

ありがたいこと

「あたりまえ」は、あることがあたりまえではなくて、実は「ありがたい」ことなんですね。

「ありがたい」とは文字どおり「ある」ことが「難しい」、つまり「めったにないこと」 だから、あることに感謝しなければいけないのですが、それらがなくなる状況にならないと、それらのありがたさが理解できない。

なくしてから、あったことのありがたさが分かるようでは、あまり頭がいい人とは言えないのでしょうね。

あってありがたいと感じているのなら、それらをなくさないように、また時間のように誰でも次第に少なくなっていくものはできるだけ有効に使うように努めるべきなのでしょう。

ただ、自分の努力、自分の望みなどはあまり入り込む余地がないままに「ある」ので、それだけに「あること」に感謝の念が湧きにくいことも確かだし、疑問も持つこともなく、「あること」が前提で、その先を考え、生きていますね。

普通

多少程度に差があってもみんなとほぼ同じであることはあたりまえで、それが普通なことであると思ってしまいます。

あたりまえのことがあたりまえでなくなると、みんなと違ってきて、普通ではなくなるので不安になります。

習慣

世の中の習慣や習わしに従って、時期が来ると毎日、決まった時間に学校や会社へ行くことがあたりまえの習慣になっています。

それらから逸脱して、独自の生き方をする勇気も能力も持ち合わせていないし、そのリスクが周囲に与える影響も配慮するという良識もあります。

その結果、多くの人が与えられた、似たような条件を受け入れながら生きるので、大枠では同じような人生を送ることになります。

常識

ほかの人たちが持っているレベルの知識、守っている社会的ルールを常識といいます。

それらのうちのひとつでも持っていない人、または確かなものとして持てていない人に対して、多くの人があることがあたりまえと思っていることを知っているだけに、それらが欠けている人がいるということが理解できない気持ちを感じていることでしょう。

あたりまえの生き方

みんなが持っているものを持っていなかったり、みんながすることと違うことをする人に接すると違和感や特別な感情が起こります。事情が、本人自身が原因でない場合にはその状況を理解できることが多いのですが、原因が本人による場合には、なぜという疑問とともに、特別な感情が起こる場合が多いです。

周りの人たちからそう思われないように、できるだけみんなと同じようにいたい、同じようなことをしたい、同じような考え方でいたい、と特別にいい評価や印象を期待しないまでも、変わっている人だと敬遠されないように努めることは普通のことでしょう。

そんななかでも、必要以上に周囲に合わせた行動をするのではなく、自分らしさを表現したり、自分しかできないことを発揮したり、自分だけが分かる趣味を楽しんだりして自分の生活や人生をデザインすることも大切なことですね。

たとえみんなと同じような状況ではなくなった場合でも、みんなと同じような状況を求めることもあるかの知れないし、その状況を前提としてあえてみんなと違う道を進むということもあるかも知れませんね。

あたりまえだと思っていたこと、普通だと思っていたこと、習慣だと思って受け入れていたこと、常識だと思っていてみんなも同じように考えているのだと思っていたことなどが、実はそのレベルは個人ごとにもちろん違うし、あるいはそれらの一部が欠けている人も、それこそいてあたりまえのことで、普通のことで、それは常識なんです。

みんなと同じような状況というのは、ありがたいことなので感謝しなければならないし、あってありがたいものは、なくすと二度と手にすることができないものが多いので大切にしなければならないし、万が一、あたりまえのようにあったものがなくなった場合には、変わってしまった状況に合わせて生きていくことになります。

あることがあたりまえ、いることがあたりまえではなく、ありがたいと思ったらこちら側の生き方として、あってあたりまえの手や足、目や耳を誰のためにどう使うのか、いることがあたりまえの親や兄弟、友人たちとどう向き合って生きていくか、が自分の責任になってきますね。

私は、何事もなく毎日を過ごせているのはあたりまえと感じていますが、一方で、世の中ではさまざまなできごとが起こっていてあたりまえです。そう思うと、あたりまえであることというのは、どういうことなのかを改めて考えさせられますね。

ひすいこたろうさんの数々の名言のなかの一つ

「あなたがくだらないと思っている今日は昨日亡くなった人がなんとかして生きたかったなんとしてでも生きたかった今日なんです。」

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