第78話 ともだち

考え方が変われば生き方も変わります
悩むことで心を傷つけるより、頭を使って考え、違う生き方を試してみませんか

「ともだち」って

「ともだち」、いい言葉ですね。その意味も深く、きっと人によってその言葉の表現も違うのでしょうね。

あなたに「ともだち」は何人いますか。これまで何人の友達がいましたか。

「ともだち」というのは、多いからよくて、少ないからダメというものでもないし、あるいは「ともだち」は一人もいない、という生き方だってあるでしょう。

そもそも、「ともだち」は数えるものではないのかもしれませんね。

「ともだち」「友人」「親友」「竹馬の友」「幼なじみ」「仲良し」「仲間」。

いろいろな人たちが物語や詩、歌、時には絵画や映像などで自分にとっての関係性を表現する「ともだち」。

あなたの「ともだち」はどんな方ですか。

「ともだち」になって欲しいという、相手に求める基準は年齢や年齢とともに変化する状況で違っていくのでしょうか、それとも変わらないものなのでしょうか。

「ともだち」とは心を許し合い、親身になって、力を貸してくれる場合が多いとはいえ、必ずしもこちら側が苦しい状況にあるからといって求めるわけではないですよね。

特別に明るい気分の時だけでなく、平常心の時でも出会いによって「ともだち」同士になることもあります。

「ともだち」になるきっかけ

同じ学校に入学して同じクラスになったり、同じ部に入って一緒に活動したり、また、同じ会社に入社したり、転勤したりして同じ職場で働くことになったり、きっかけはいろいろとありますが、それやこれやでいくつかの出会いがあります。

「第56話 出会いの状態」でもお話ししましたが、出会った時のお互いの心の状態で、引きつけ合ったり、そのまま何事もなく離れてしまう状況になります。

出会った瞬間に何か感じ合うものがあって親しくなり、そのまま続く場合もあれば、しばらくしてその気持ちが冷めてしまう場合もあります。

出会った時から徐々に親しさが深くなったり、長く続く場合は、お互いがお互いを理解し合い、性格や生き方に共感を覚えたり、好意を持ったりするからでしょう。

そして、その発展形としてお互いに助け合ったり、励まし合ったり、力になったりし合う関係が生まれていき、「ともだち」という存在になっていくのでしょう。

「ともだち」との関係

「ともだち」になると、お互いに強い信頼関係が生まれます。

お互いを信じあっているので、“自分のことを心から信じてくれる”、“何があっても裏切ったり、裏切られたりしない”という安心感があり、また“自分の存在を否定することなく肯定し、愛情を与えてくれる”存在でいてくれます。

それなので、「ともだち」には心の底から思っていることを言えたり、「ともだち」が自分に対して本音を伝えてきても受け入れることができます。

「ともだち」には、自分の秘密を打ち明けてもいいと思えたり、悪いことに対してはしっかりと叱ってくれて、正しい方向へと引き戻してもくれます。

「ともだち」は、どんなピンチに陥っても必ずあなたを助けてくれる存在で、大きな失敗や挫折、失恋などあなたが落ち込んでいる時などは近くにいてくれます。

「ともだち」とは、そんな関係が変わることなく、長く続くものです。

「ともだち」同士になってから、いつまでもお互いの気持ちが変わらずにその関係が続いていることは理想的ですが、その時は、お互いがお互いを必要としていて、力を与え合いながら過ごしてきたものの、お互いの状況が変わったり、様々な経験をしてきて精神的にも成長をしていったためにその関係に変化が生まれることは悪いことでも罪なことでもないですよね。

それこそ、場合によっては「ともだち」として喜び合わなければならない状況だってあり得ますよね。

たとえ相手に自分以外の「ともだち」ができたとしても、その人が多忙になったりして会うことが難しくなったり、ほかのことで頭がいっぱいになって私が相手にとっての「ともだち」としての存在が薄れたとしても、状況が理解できれば「ともだち」ならば許せますよね。

それは裏切りではないし、逆のケースもあり得ますね。

状況の変化で、相手の「ともだち」としての存在が薄くなっていくケースです。

人は状況に合わせて変わっていくし、成長もしていきますからその過程で、「ともだち」であることにお互いが縛られるようでは「ともだち」とはいえませんね。

「ともだち」同士でいることが心の負担にならない、自由でいられるから「ともだち」同士なのです。

なぜ「ともだち」

「ともだち」は、少なくても同じ時間を共有してくれて、私の置かれている状況を同じレベルの位置から理解してくれて、こころから私のためにできるだけの気持ちで力になってくれて、私が安らかな気持ちになることを望んでくれて、これからの生き方に力を与えてくれる人です。

では私は、相手にとって「ともだち」でしょうか。

求めるだけでなく、求めるものと同じものを同じだけ相手に与え、相手の期待に応えているかな。

もちろん、お互いがお互いに求めるものが全く同じなどということはあり得ませんから、力になる効果として同じものということになるでしょう。

私の「ともだち」にとって私は、相手の「ともだち」でしょうか。私を「ともだち」だと思ってくれているでしょうか。

あなたにとっての「ともだち」を思い浮かべてください。その方はあなたにとってどんな存在でしょうか。

あなたはその方にとってどんな存在でしょうか。

「ともだち」の存在

「ともだち」は、たとえ住む場所が離れていても、いつも親身になってくれる、心から心配をしてくれる、力や勇気をくれる、仲がいい、なんでも話せる関係の人ですが、考えてみればそのような人は「ともだち」以外にもいますよね。

親とも仲がいい、兄弟とも仲がいい、伴侶(妻や夫)とも仲がいい、恋人とも仲がいいのならば、「ともだち」と同じような関係です。

しかし、親や兄弟は血のつながりがあり、伴侶や恋人は将来的であれ戸籍のつながりがあって、社会的には、義務などを伴う強いつながりで、いわばそれらの関係はそうであるべきとか、そうであってあたりまえという関係です。

困っている時に力になってくれるだけならば、学校の先生や会社の上司の場合もあります。

それなので、親や兄弟、伴侶や恋人が親身になって力を与えてくれても、そうするのが当たり前という感覚もあり、あまりありがたみを感じにくいかも知れません。

「ともだち」は、そんな社会的な拘束がないのに、自主的に、好意的にそのような関係を持ってくれています。

なんの義務もないのに、精神的な負担もあるかも知れないのにそのような関係でいてくれます。

だから「ともだち」は特別な関係の、特別な存在なのです。

困った時に力を与えてくれると、特別にありがたみを感じます。

「ともだち」は、心が癒される音楽や文学などの分野や、人間以外のペットなどの動物、あるいはSNSなどでの名前(ペンネームを含む)などでの知り合いとは違って、実在する、存在が実感できる、双方向で理解し合える、同性だけでなく異性の場合もあり、同じ歳の場合や先輩や後輩の場合もあるけれど人間同士です。

ただ、親、兄弟、伴侶はいつまでたってもその関係は続き、続く関係のなかで生き方として、付き合い方の折り合いをつけていく必要がありますが、「ともだち」はその関係を続けていかなければならないという義務はありません。

同じ親身になって心配をしてくれても、親や兄弟、伴侶であればそれが当然だと思うのか、あまりありがたみを感じることがなくて、「ともだち」からだと義務のようなものがないと思うためかありがたみを感じてしまいがちですが、親などは生まれてからかなりの永いあいだ心配をしてくれているので、それはそれでありがたいですよね。

ありがたみを感じているだけではなく、同じかそれ以上の気持ちで気を遣わなくてはいけないでしょう。

親、兄弟、伴侶、恋人、ともだちは皆さん、いつでも同じように親身になって力を与えてくれる自分にとって大事な人たちです。

大切にしなければいけません。

羽澤 幸成

学生時代の県人会幹事長として、のちに大活躍される国会、県会、市会の議員の方や役所の方、趣味の音楽活動を通じて芸能の世界で生きている方など多くの人たちに接し、社会人になってから海外進出など多くのプロジェクトを軌道に乗せ、その分野の専門の方たちとも知り合い、いくつかの新しいことにもチャレンジして、早期退職後の企業信用調査の仕事では、それまでの大きな会社の人たちとは違う中小企業や個人事業の方たちとお会いし、いまは地域コミュニティ活動を通じて地域の方たちと交流活動をしています。
それらのキャリアを通じて、たくさんの経験をし、外国の方も含め多くの人たちに出会い、楽しいことばかりでなく、いやな思いもたびたびして、いろいろなことを学びました。
それぞれの世界で、多くの人たちが作る人間模様のなかで、うまくいっている人やそうでない人もいて、能力以外に考え方が違うのだ、と感じました。
人それぞれ考え方が違うので、当然に生き方も異なり、一緒に仕事や生活をしながら、なぜ、そうするのかを考えることの繰り返しで対応しながらも、自分の信念は曲げずに生きてきたので、心を痛めて悩んでいる人に、こうは考えられないかな、と頭を使って苦境を打開するキッカケになってくれればと思っています。

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