「食べること」と「生きること」
よく「食べること」は「生きること」と言われますが、確かに、生きるためには食べて、栄養を摂らなければいけないので、言葉の表面上はその通りです。
「生きる」ためには食べなければならず、「食べること」は「生きる」ためには不可欠ですが、ただ作ってもらって出されたものを「食べる」というのは命をつなぐため、生命維持が目的の行為となります。
「食べること」と「生きること」「生きていくこと」は密接な関係があります。
「食べること」と「生きていくこと」
「生きる」ために「食べる」のではなく、「生きていく」ために「食べる」という行為を位置づけると、「今日はこういう気分だから和食にしよう」とか、「冷蔵庫にある材料でこれを作って食べよう」など、「食べること」に楽しみや知恵、工夫が加わり、バランスの取れた栄養の摂取なども考えながら、おいしく、楽しい「食事」というセレモニーや儀式に似た意義を持つことになります。
「食事」は、一緒に摂った人や場所、季節、時間、メニュー、食材、味、その時の話題などとともに記憶に残り、思い出として、振り返れば生きてきた記録の一部分になります。
そのように「食べること」は、「生きる」楽しみの一つでもあり、「食べること」に関心が高い人は、「生きること」にも関心が高い傾向がみられます。
逆に、「食べること」に関心が低い人は、「生きること」だけでなく仕事や家族、友人に対してもあまり熱心ではないような気がします。
「食べること」と「経験すること」
英語で「You are what you eat」という言葉があって、「あなたは食べたものでできている」という意味になるのですが、「食べる」という行為の意義を広げて考えれば「経験する」ということになり、いろいろなことを経験して(味わって)、成長のきっかけにするという示唆として理解することができます。
「食べ物」の味にはいろいろなものがあります。好きなもの、嫌いなものという切り口やおいしいもの、おいしくないものという切り口もあります。さらに細かくは、甘いもの、しょっぱいもの、辛いもの、にがいもの、すっぱいものなどにも分けることができ、さらには食感や臭い、色、組み合わせなどの要素も加わります。
これら「食べ物」の味や印象は、程度も含めて多分に個人の感覚による判定です。
いろいろな種類の「食べ物」を「食べ」、さまざまな味覚を経験して知り、その一つ一つに個人の感覚の判定をしますので、「食べない」人にはその経験ができないことになります。
さらに自分でメニューを決めて必要な食材を選んで揃え、料理や調理をして目指したイメージどおりの味やカタチ、食彩になったかどうかを検証できるようになれば、他人(ひと)が作った料理に対しても意見を持つことができるようになるかも知れません。
さきほどの、「食べる」という行為を「経験する」ということに置き換えて同じように考えてみます。
さまざまな味、栄養、経験
世の中にはいろいろな味(個性)を持っている人たちがいます。その方たちと協力し合って様々なことをやり遂げていく場面はよくあることです。
ただ、いろいろな味(個性)があっても食材の肉、魚、野菜、果物などと同じように、それぞれに栄養があるように、人も同じでいろいろなタイプの人がいて、知り合い、付き合いながらさまざまな経験を積むことで、それぞれの栄養を吸収していきます。
「偏食」では摂れる栄養が偏ってしまうのと同じように、「好きなひとだけ」「付き合いたい人だけ」と付き合っていては、得られるかも知れない知識や経験を逃してしまう可能性もあります。
食事として料理がテーブルに並ぶまでには、食材の生産者、加工業者、運送業者、小売業者、調理者など多くの方がかかわっていて、それぞれの方のおいしいものをおいしく、安全に食べて欲しいという気持ちが込められています。
食事をする時には特別意識はしませんが、世の中にはいろいろな方たちがいて、さまざまなカタチで世の中に貢献をしています。
人との付き合いも、ふだん身近な人たちとだけ過ごしているので、似たような境遇や職業の方たちとの付き合いが中心になりますが、その方たちもいままでさまざまな経験を積まれてきているということを考えれば、付き合い方も少しは変わるかも知れません。
いろいろなものをおいしく食べて、楽しく生きていきたいと願うのと同じように、たくさんの人と付き合いをして、さまざまな経験をして、人生を豊かに、楽しく生きていきたいものですね。
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