雑記 その13 ビートルズの想い出

考え方が変われば生き方も変わります
悩むことで心を傷つけるより、頭を使って考え、違う生き方を試してみませんか

ビートルズとの出会い

その昔、小学生の高学年の頃から洋楽に興味があり、ラジオ番組の洋楽のヒットチャートを毎週ノートに書いていました。

当時のラジオでのヒットチャート番組は記憶では、「9500万人のポピュラーリクエスト」「ユア・ヒット・パレード」「キャッシュボックス」などがあったと思います。

その日もラジオを聴きながらヒットチャートを書いていたら、記憶なのであいまいですが、アナウンサーが「今週、イギリスはリバプール出身のグループの赤丸急上昇中の曲があります。24位抱きしめたい、21位プリーズ・プリーズ・ミーです。それではお聴きください、ザ・ビートルズ。」と確かこのような紹介で始まった音楽に、まさに雷が落ちたような衝撃を受けました。

それまでも、アップテンポな曲やポップで激しい曲もあったのですが、その2曲はいままで聴いていた洋楽とはまったく違っていました。

それまではバックバンドの演奏にのせて歌っていて、激しい曲であっても何かキチンと整っている感じでしたが、その2曲はいままで聴いてきた洋楽の域から大きくはみ出していました。

歌っている、というよりどちらかといえば叫んでいる、シャウトしている、心の中の気持ちを自然に吐き出している、という感じでした。

それからビートルズについていろいろ調べたら、4人組で、自分たちで作詞・作曲をし、自分たちで楽器を演奏するということが分かり、そんな歌手やグループはそれまで聞いたことがなかったので興味を持ち始め、さらに彼らの音楽を聴いていくうちに、飛びぬけたメロディーのほかにコーラスのすばらしさにも夢中になりました。

まだ、インターネットなども当然ありませんでしたから、彼らに関する記事を探して、新聞や雑誌の切り抜きを始め、スクラップブックが何冊にもなりましたし、彼らが登場する放送されたテレビ番組は全て見るなど、すっかり彼らの追っかけになってしまいました。

映画「ハード・デイズ・ナイト」

その後、4人が出演する、ドキュメンタリー仕立ての映画「ハード・デイズ・ナイト」が日本でも上映されました。

学校の帰りや休みの日に映画館に通い続け、50回以上は観たと思いますが、映画での彼らの英語のセリフを、意味も分からず言えた記憶があります。

日本公演

そんなビートルズが来日する、ということになり、ライオン歯磨が抽選で、入場券が無料で当たるというキャンペーンを始めたのでライオン歯磨を買って応募したところ当選し、チケット1枚が送られてきました。

日本中が大騒ぎになるくらいの出来事だったので、チケットを見た時には大変驚きました。

もちろんチケットが当たったことは誰にも言いませんでした。友人に知られたらうらやましがられる、というレベルではなく、どんな圧力がかかってきて、チケットを取られてしまうのではないかという心配と、当時、ビートルズは世間では受け入れられない人たちが多くいて、ビートルズに夢中になる子は不良だと印象があり、来日にも反対運動が起こっていて、学校でも絶対に公演を観に行ってはいけないという通知があり、彼らの公演期間中に学校を休むには親からの申請が必要というくらいの厳しさでした。

当時、私は学校の先生からは品行方正の「いい子」という印象だったせいか、まさかビートルズを観に行くような不良ではないだろうということで、当日学校を休んだのですけれど、親にも問い合わせはありませんでした。

1966年、昭和41年6月30日(木)の5回の日本公演のうち初日の第一回目の公演を観るために当日お昼頃、厳戒警戒の日本武道館へ行き、並んで入場しました。

「南スタンド 3階V列32番」が私の席でした。位置的にはまずまずでしたが、3階だったのでステージは小さくしか見えませんでした。

それまでコンサートなどには行ったことがなかったし、しかも一人で、こんな大勢のなかのピリピリした雰囲気だったので、大変緊張したのを覚えています。

ビートルズの前に日本の歌手の方やドリフターズやブルーコメッツなどのグループが演奏して、E・H・エリックさんの司会で6時半頃ビートルズが登場しました。

持参した双眼鏡で観たステージに上がった彼らは、ギターのチューニングをしたと思ったら突然「Rock And Roll Music」を演奏し始めました。

それまで映画やテレビでは観てはいましたが、雑誌やスクラップブックを何度も見ていたので、実際に動く彼らを観て、「ビートルズが動く」様子に変な感じでした。

その後の記録映像やうわさ話で、ファンの方がキャァー、キャァーと騒いで、演奏が聞こえなかった、ということになっていますが、少なくても初日の第一回目は、通路のすべてに警備員がいて、立ち上がったり、ハンカチを振っただけでもすぐに制止され、むしろ静かで彼らに気の毒なくらいでした。

約40分間、11曲が演奏されました。あっという間の出来事でした。

翌日、学校へ行っても休んだ理由は聞かれなかったし、もちろん私からは誰にもビートルズの日本公演に行ったことは話しませんでした。

ビートルズとの出会いは、私のその後の人生に大きな影響を与え、人格形成の柱になりました。

ビートルズが登場する以前の世界中の若者の意識は、大人が求める「いい子」の振る舞いをしなければならず、その枠からはみ出る子は「悪い子」に分類されるというものだったと思います。

それがビートルズは、音楽の奇抜性だけでなく、髪型やファッション、言動について世間や大人から激しく非難されても変えようとせず、そのスタイルを貫き通しました。

そこで若者たちが気がついたのは、「いい子」「悪い子」という振る舞いだけでなく、「自由」という振る舞いもある、ということでした。

一部の若者に、その意味の誤解から暴走も見られましたが、「好きなこと」「やりたいこと」をやってもいいのだという風潮が広まり、そこから若者文化が次々と発生し、さまざまなムーブメントが起き、途中、戦争など世間の混乱とともに混とんとした時代もありましたが、若者文化は今日に至っていると考えています。

私もビートルズの影響を強く受け、それから「自由に生きる」を行動の基準にして、当然に自己責任を意識しながらさまざまな経験をしてきました。

ビートルズ日本公演の概要(当時の雑誌の切り抜きから)

収支

収入合計1億1290万円

内訳:入場料収入1億30万円、プログラム販売860万円、テレビ放映料400万円

支出合計1億700万円

内訳:ギャラ 5400万円、ガードマンほか620万円、会場借用料1270万円、航空券・ホテル代910万円、その他費用2530万円

主催者純利益560万円

チケット内訳

読売新聞抽選2万枚、東芝抽選2千枚、ライオン歯磨抽選5千枚、ファンクラブ優先販売4千枚、招待500枚、その他1万8千500枚 合計5万枚

羽澤 幸成

学生時代の県人会幹事長として、のちに大活躍される国会、県会、市会の議員の方や役所の方、趣味の音楽活動を通じて芸能の世界で生きている方など多くの人たちに接し、社会人になってから海外進出など多くのプロジェクトを軌道に乗せ、その分野の専門の方たちとも知り合い、いくつかの新しいことにもチャレンジして、早期退職後の企業信用調査の仕事では、それまでの大きな会社の人たちとは違う中小企業や個人事業の方たちとお会いし、いまは地域コミュニティ活動を通じて地域の方たちと交流活動をしています。
それらのキャリアを通じて、たくさんの経験をし、外国の方も含め多くの人たちに出会い、楽しいことばかりでなく、いやな思いもたびたびして、いろいろなことを学びました。
それぞれの世界で、多くの人たちが作る人間模様のなかで、うまくいっている人やそうでない人もいて、能力以外に考え方が違うのだ、と感じました。
人それぞれ考え方が違うので、当然に生き方も異なり、一緒に仕事や生活をしながら、なぜ、そうするのかを考えることの繰り返しで対応しながらも、自分の信念は曲げずに生きてきたので、心を痛めて悩んでいる人に、こうは考えられないかな、と頭を使って苦境を打開するキッカケになってくれればと思っています。

羽澤 幸成をフォローする
アイモバイル広告
雑記

コメント

タイトルとURLをコピーしました