
見る
私たちは身体の器官としての眼で、いろいろなモノやさまざまな光景を見ます。
「見る」といっても、無意識にや、ほかのことを考えていてボーっと見ることもあれば、偶然目に入ったり、見ようと思って意識したり、さらには確認のために注視したり、凝視したりもします。
見ているものは誰にとっても現実であり、事実ですが目の前で見た光景を情報として受け取り、どう理解するか、その現実、事実をどう感じるかは個人によって違います。
ヒトはそれぞれ年齢も性別も性格も、これまでの経験も知識も、生活環境も違うからです。
そもそもですが、それらが原因でそれぞれが見る状況も異なります。
知る
目で見たものからいろいろな情報を得、これまで蓄積してきた知識や経験と合わせて、目の前で起きている状況を知り、理解します。
自分の身の回りで起こっていることを目で見て知り、いま自分の置かれている状況がわかります。
同じような光景をこれまでに見てきたためにモノや状況を理解できたり、初めて目にするために理解できないこともあります。
いまを正しく理解し、的確に状況を判断し、これからに対して適切な対策を講じるためにはまず、見たものを実感としてより確かなものにしなければなりませんが、そのためには、できることならばほかの感覚の補助が必要かも知れません。
聞く(聴覚)、触る(触感)、食べる(味覚)、においをかぐ(臭覚)などですね。
「見る」も正確には、「視覚で感じる」ということなのかもしれません。
『産業教育機器システム便覧』(教育機器編集委員会編)によると、人間の五感による知覚(情報判断)の割合は「視覚83.0%、聴覚11.0%、嗅覚3.5%、触覚1.5%、味覚1.0%」だそうです。
まさに、「百聞は一見に如(し)かず」ということですね。
感じる
まず見ることは大事ですが、見たものをどう感じるかでやるべきことが異なるので、これまでの経験や知識を駆使して、見た状況をどう感じるかは大切なことです。
同じ状況を目にしても、その時の感情や気分、心境、仕事や勉強の繁閑さによって感じ方は変わるかも知れません。
憂うつな気分の時や仕事などで忙しくしている時などや、目に入る状況が特別なものやいま必要なものでない場合には、たとえそれらを見ても心が動かないでしょう。
気分が開放的だったり、心に余裕がある場合には、目に入った状況をじっくりと、比較的客観的に見て、理解し、判断してそれなりの感情が起こるでしょう。
美しい、楽しそう、おいしそう、うれしい、おもしろい、こわい、悲しい、驚きなどのさまざまな感情が生まれたり、見た状況によって関りを持とうと思ったり、避けようとしたり、もうしばらく様子見をしようなどのさまざまな行動を起こしたりします。
心や時間などに余裕があれば、目にした状況に関わろうとするかも知れないし、余裕がなければそれどころではないと目にした状況を遠ざけるかも知れません。
絵画や写真、彫刻などを見た時のように色やカタチ、大きさなどから美しいと思ったり芸術性を感じたり、それとはまったく違って、見た状況によって危険と感じた場合には逃げたり、身を守ったりします。
このブログ「第56話 出会いの状態」で書いた、人との出会いもその時の心情や状況などによって違うのと同じでしょう。
困っている時に適切なアドバイスをしてくれる人はありがたいと感じますが、とくに困っていない時に、していることに干渉されるとうっとうしく感じる場合もあります。
友人が食事をしているのを見ると、自分が空腹であれば自分も食事をしようと行動するだろうし、満腹の時はただ見るだけで終わるかもしれず、また友人に関心があればどんなものを食べているのだろうか、とかどんなものが好きなのかなと興味を持つこともあるでしょう。
見たことで知った現実に対してどのような行動をとるのかは、その時の心情や時間的余裕の有無などが大きな要因となり、感情が反応して状況を正確に判断し、それに対する的確な判断をします。
見たくない現実
いままで経験したことがないような現実を目の当たりにした場合とか、起こっている現実が好ましいものではないことなどから、起こっている現実を信じたくないような場合には、見たままを何も感じることなく、主観を交えずに客観的にしっかりと見届けて起きている現実を理解し、まずは受け入れることが必要で、それにより的確な対策を講ずることができるようになります。
起こっていることを(客観的に)直視せずに、“こんなはずはない”とか、“これはおかしい”とか、“なぜこんなことが”とか、“こうだったいいのに”などと自分の都合を優先させた主観によって起こっていることを判断すると、的確な対策を講じることができません。
そんなときにこそ、的確な対応が必要なので現実に目を背けることなくしっかりと、正確に現実を見て、的確に判断をし、適切な対応を図らなければいけません。
変化に気がつかない
また、身の回りで現実に変化が起こっているのに、それらに気がつかないこともあります。
このブログ「第37話 車窓からの景色」でも書きましたが、窓の外の景色は変わりますが自分の周りの状況はあまり変化がなさそうに感じます。
電車に乗り窓の外のさまざまな山や海、川、田畑、街並みなどの景色を見ます。
それらの景色を見て何を感じるか。景色を美しいと思うか、街の人たちの生活を思うか。
人生を電車に例えれば、電車はいつか止まります。多くの場合は駅で、そこで降りてしばらくその町で暮らすか、次の電車に乗り換えるか、終着駅かによってそれぞれの行動は異なります。
駅に停まれば降りる人もいるし、新たに電車に乗ってくる人もいます。
そしてまた電車は動き出し、入れ替わった乗客と一緒に新しい景色を見ることになります。
行先を見て乗った電車は、行きたかったところへ着いたか、そして見たかった景色を見ることができたか。
気づかないうちに他人(ひと)に迷惑をかけている場合もあるかも知れません。
夢をみる
見るといっても現実だけでなく、夢を見るという状況もあります。
寝ていたり、起きていたとしても実際に目で見えるわけではないものの、寝ている場合の夢の状況は悲喜こもごもですが、起きている場合にはこれからの好ましい状況を想像します。
希望や目標を意味する夢を見ている場合には、その実現に向けて頑張り、それが達成された時の状況を実際に見ることができるといいですね。
まずは見ること
まずはしっかり見ること、何が起きているのかを理解して知ること、正しく感じること、冷静に判断して的確な行動をとることで、さらに自分が望む好ましい現実を見ることができるでしょう。
そのためには、感度のいいアンアテナをしっかり張って、身の回りで起こっていることに気がつき、判断した状況や起こした行動などを知識、経験にして、次に見る状況に対する的確な行動のベースにする必要があります。
生きていくために、快適に生活していくためにはどのような情報が必要なのかを常に意識し、それらについての正しい情報の取得方法を理解し、確立しておくと見たい状況を見ることができるチャンスも大きくなり、効率的に、比較的容易に好ましい状況に向かうことができるようになるでしょう。
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