
真実、事実、現実とは
「真実」「事実」「現実」という言葉があります。
どれも言葉の定義とか哲学的解釈とかについて古くから厳密に議論され、一定の理解が世間では認知されているとは思ますが、私はよく理解ができていません。
それらについてたとえ解説を読んだり、講義を受けたとしても、最終的にはこれまでの経験と知識をベースにした自分の理解になるわけですから、皆さんと全く同じ内容をとらえているとは言えないかも知れませんが、日常的にこれらの言葉を使って会話をし、とくにトラブルがないので、正確には理解をしていないものの、大きく外れたとらえ方をしているわけではないのかな、と思います。
それぞれの言葉の意味を自分なりに理解をして、会話をしたり、ものごとのできごとをそれぞれの言葉に分類をして、現状を理解したり、次への対策を講じたりしています。
それぞれについて、辞書などには次のように書かれています。
「真実」は、多くの人の主観に基づく絶対的・普遍的に正しいとされる価値観や真理で、心の中にある解釈を踏まえた物事。
ポイントは、多くの人の主観ですから、もしかしたら条件が整えば変わることもあり得るということで、「真実」は不変的、常に絶対的ではないということですね。
「事実」は、客観性や再現性があり、検証できるできごとや情報など実際に存在した物事。
ポイントは、再現性があるということなので、条件が同じであれば必ず同じ結果になる、ということになり、ある意味では「真実」よりは絶対性がありますね。
「現実」は、実際に体験した状況で、自身の主観を通して感じた物事なので、ほかの人にとってはどう受け取られるかは分からないものの、自分にとっては絶対性がありますね。
そして、それぞれの言葉に付く「実」という字は、“状態”を意味するとのことです。
状況への対処
これらの説明を自分なりに理解して解釈すると、どれも自分ではどうすることも、生み出すことも、変えることもできないものなので、多くの人たちが正しいと思っていて、それらを拠りどころにして生きていることを思えば、自分もそれに従った方が無難に生きていくことができそうだし、起こったできごとを理解し、受け入れて、その原因を考えたり、反省をしたり、学習をしたりして、これから先をどうやって生きていったらいいのかの対策を講じたりするしかありません。
「真実」や「事実」は、それらが説明されている状況をまだ体験したことがなくても、いずれ条件によって想定されているような状況に遭遇するかも知れないので、言われているような「真実」や「事実」の内容や意味を理解して知識として取り入れ、同じような状況になったときには先人たちが対処してきた方法に沿って、自分も安全に、誤りのない方法を選択できるように努める必要があります。
「真実」への対処
体験したできごとや知った論理・理論がどのカテゴリーに属するのか。
私なりの理解です。
必ずしも目には見えなくても、自分の身に起こったことや見たり聞いたりしたことが「真実」だとすれば、この世の中で人間として生きていく以上は、条件が整えば次も必ず起こることになると理解する必要があります。
ということは、たとえ似たような状況に遭遇したとしても、「真実」が前提としている条件を正しく理解していないと、何かの条件が異なれば期待したり、恐れたりするような結果にはならないことがあるということも理解しておかなければいけません。
自分の身や他人(ひと)に起こったことが「事実」だとすれば、偶然であれ、たまたまであれ、起こった内容やなぜそうなったのかの理由を正確に知る必要があります。
条件が合えば、再び起こったり、次は自分にも起こるかも知れないできごとになるからです。
できごとがよくないことであれば、その時に備えたり、そうならないように努めたりします。
「現実」への対処
「現実」は、先日のこのブログ「第115話 見る、知ると感じる」でも書きましたが、実際に自分の身の回りで、まぎれもなく起きたできごとですが、それを自分のなかでどう理解し、受け入れるかはその時の感情によるところが大きいと思います。
現実であれば、状況が好ましいものでも好ましくないものでも受け入れざるを得ません。
問題は、その現実にどのように向き合い対応するかです。
できるだけ多くの、さまざまな状況を体験し、多くの方の話しを聞いてさまざまな考え方や知識に触れ、それらのなかから自分が正しいと信じる情報として蓄積し、いろいろな場面での決断に役立てるように努めなければなりません。
しかし、最近では、自分の目や耳で見たり聞いたりしたことが必ずしもリアルの「現実」ではなく、全くの作りごとの「フェイク(偽物)」な情報が広く流布されていることがあります。
空想や仮想、想像は映画や漫画など作り物の世界だけで表現されるもので、写真や動画などは実際に起こったことが写されていて、目にしたものは「事実」「現実」だと思い込んでしまっていた先入観もいまや慎重になる必要があって、最近ではその写真や動画も簡単に「フェイク」と呼ばれるニセ画像を作ることができるということも理解しておく必要があります。
見極める能力
実際に見たり聞いたりしたと思ったことや、同じ体験や話を聞くなどをしても、それらを真実、事実としの情報として選択できるかは能力に依ります。
このブログの「第19話 誰の言うことを信じるかは能力」でも書きましたが、いまはさまざまな媒体を通じて、種々雑多、玉石混交の風聞が聞こえてきたり目に入ったりしますが、その中から自分がこれは正しい、自分もそう思うと信じて自分の情報として取り込むには一定の能力が必要です。
流れてくるさまざまな風聞、情報から「真実」「事実」「現実」「フェイク」を選別できる能力のベースになるのは、これまで体験してきたできごとをなぜそうなったのかという原因を理解するとともに結果を的確に感じた経験と正しく取得した知識です。
その時には正しいと思って自分が信じたものがあとで、間違えであったことに気がついた時には、なぜ間違えたのか、何が正しかったのかを正確に検証しなければまた同じような間違いを起こしてしまいます。
なりたい自分の方向
なにもかもがいつも順調に、思いどおりになるわけではないので、間違えたり、おかしいと思ったらできるだけ早く修正をしなければいけません。
このブログ「第13話 なりたい自分の方向」でも書きましたが、私は生きていくのに大切なことは、スピードや重さ、濃さなどではなく、進もうとする方向だと思っています。
望む状況の「方向」さえ分かっていれば、たとえ時間がかかっても、いくつかの試練があっても、努力し続ければいつか目標にたどり着くことができます。
もし、目指す方向と違う方向に向かっていると感じたら、すぐに方向転換をする必要があります。
望まない方向に進めば進むほどますます、違った方向に進んで望む方向との距離が離れていき、さらに修正するための労力や時間が増えることになるからです。
また、スピードや重さ、濃さは条件が整う必要があるので、他人(ひと)の支援や運などに恵まれなければならないかも知れないのに対して、方向であればある程度、自分の置かれている状況などを考慮して進みたい方向、進まなければならない方向を自分の裁量で決められる可能性が高いと思っています。
先人たちの教えとなっている「真実」「事実」を正しく理解し、いま自分が置かれている状況である「現実」を的確に認識して誤りのない、なりたい自分の方向が選択できるといいですね。
人生を豊かに、より安全で快適に、楽しく、元気で生きてくためにはどうすればいいのかの選択、方向性の見極めをあれやこれやに惑わされることなく、自己責任でできるように的確な知識と経験を積んでいきたいものです。
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